効率を追わない矛盾をいかにするか
私は乗り物マニアではないので、こだわりについては理解できても、実用的な利便性をとってしまいます。クラシックカーを見て、たとえば1967年シボレーカマロなんかを見て、カッコイイなあと思うことはあっても、乗りたいかといえば、まるで思わない。欲しいかといわれれば、くれるならもらうけど、自動車税払うの嫌だし、即売っちゃいたい。これから車を買うならば、水素や電気自動車、自動運転車でいいやというくらい、車については実用主義です。
そんな人間ですから、本屋で嬉々として電車の時刻表を買っていく御仁を見ると、なにをやってんだろうと思ってしまう。スマートフォンのアプリで見れば乗り換えの心配がないどころか、遅延情報から出口に近いドアまで案内されるわけですから、無駄も無駄。ああ、アホらしい……。
でも、趣味というものは、そういうことなんです。そういうところに宿るのです。経済効率だとか、生産性なんて話を趣味に持ち込むことが間違いですし、承認欲求を満たそうとしたり、世間に理解してもらおうと思うことがスタートラインとしておかしいのです。こだわりを極限まで突き詰めていくからこそ、電車の時刻表を読みあう仲間と深く絆で結ばれるんです。そこに能率はあっても、効率はいらない。釣りの場合で考えれば、効率を求めていけば、行き着く先は釣りではなく「漁」になってしまう。そんなことは当然、望まないはずです。
釣りは個人技だからこそ輝く
この表現もおかしいといわれてしまいそうですが、私にとって能率というものは「1分間に1回キャストするところを、2回にする」といった意味で、効率は「そもそもルアーなんて投げずに船団を組んで網で獲る」といった意味になります。辞書を開くと、能率を前者、効率を後者のような語釈で書いてあるものもあれば、能率=効率のこととバッサリやっているものもありますけれども、効率を追っていない事柄で、より高度な次元を目指すことを能率を上げる、と私は呼びたいわけです。まわりくどくなりましたが、趣味の世界は、まったくもって能率の世界そのもので、能率を上げることも上げないことすらも自由なのです。
だからこそ、みんながこうしているからボクも……なんてものは、趣味の世界、ことさら経済効率のない趣味においては野暮というか、バカといってしまったほうがいいかもしれません。みんながいい釣り道具を持っているから自分も買わなきゃいけない? 本当にそうでしょうか。そんな奴らと付き合わなければいいでしょう。ひとりで釣りに行けばいいんです。釣りは根源的にはひとりで行う遊びです。みんなで釣りに行き、誰がたくさん釣ったかというのも確かにおもしろい。でも、そういう遊びが行き過ぎると、効率だの生産性だのを追求し、仕事になり、作業になって、終いには我々の心をカラカラに渇かすアレやコレになるわけでしょう。やめましょう。そんなことは。無駄なことこのうえありません。趣味とは自己実現の極地です。その結果、仕事になることもありますが、それは心を渇かす世間一般の仕事ではなく、心を満たす仕事です。根っこの部分で違います。
競いあう相手を間違ってはいけません。同時に競いあう項目も間違ってもいけない。相手は自然で、人や時間といったライバルではありません。釣果も、釣具にかけた金も、時間も関係ない。ただの人間として、人間の小賢しい知識と技量で、自然という魚側の土俵で戦う。それが釣りです。私はそこにさらなるハンデとして、ルアーを持ち込みます。これで私が勝てば、より強くニンゲン様の勝利と宣言できるからです。
恐ろしくくだらないこだわりです。バカでしかありません。でも、それが釣りです。そこには同調も協調も、効率もなくて構いません。釣りは、個人の発露、個人の主張、究極のエゴだからこそ、神秘的で人を魅了するのです。釣りは個人技だからこそ輝く。流行などに流されない、確固たる自分の釣り、エゴの発現としての趣味の形を持ってもらいたいものです。
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