人生論ノート

文庫, 書評

Pocket

三木清は母校の哲学科の先生であった。入学当初、私がまだ18だったとき、哲学科に入ったという新入生がある懇親会の席で、いかに三木清がすばらしいか、哲学がすばらしいか、それ以外の学問が「ゴミ」であるかを語ったものだから、誰もが閉口した。

 

ただ、私もあまりに若かったため、「哲学などというものは、くだらぬ文学同様に一時の熱病だ」と応戦してしまったわけである。さらに、「三木の師はハイデガーだ。ハイデガーといえばナチスの党員で、学生にまでナチの思想を強要した男ではないか。三木がどうあって死んだか知らんのか」とまで加えてやりこめてしまった。当時の私もまた、地理学に傾倒し、熱病を発し、哲学や数学より古い、人間の周囲の環境を題材にした地理学こそ真の学問であると思っていかからこその失態だ。どこに行けばどんな木の実がとれる、誰それはどこに住んでいるといった、人間(ときに動物)が生きるための基本に端を発する地理学は、これを修めずして人間を云々したり(哲学)、数字をいじくってみたり(数学)、詩歌をそらんじること(文学)などできない。この思いはいまも変わらないが、いくらなんでも大人気ない。優劣などつけたがる奴に応戦した時点で、自分もその程度だというのに。

 

ちなみに三木清は戦中から思想犯、政治犯とみなされていて、治安維持法によって逮捕。戦後の混乱期に病から獄中死している。ハイデガーは生涯ナチ党員で、ヒトラーににらまれたときに仲間を捨てて(左派的なナチ党員はヒトラーによって粛清された)命を拾った裏切者であるが、三木は信念のうちに地位も命も失った、真逆の男である。いずれも会ったこともないので、仔細は後年書かれた本のなかでしか知ることはできないが、戦時の思想危機にあって、人生論ノートなどと題し、ギリギリまで体制を批判した男の生涯を思うとき、日本人的な感情が湧き上がる。

 

ただ、人生論ノートを開いて読むとき、「こいつ自身、やっぱり熱病の患者じゃないか」と思うのである。ドイツに留学しすぎたか。日本語の不自由さを感じる。戯言の類も散見される。本当に考え抜いたテーマだけ取り扱っておけと思うこともある。充実しているのは他人の学問分野ばかりではないかとも思う。西田幾多郎やハイデガーとその弟子たちが用意したものに、醤油なりカツブシなりを乗せただけではないかという箇所も散見される。やはり酔っているのだ。学問であり、崇高である哲学という御仏を前にして、威を借るか、はたまた平身低頭しているのか。なんにせよ、まともな精神構造ではない。もっとも、知の地平に身を置いて、穏やかに現象を観察、列記する学問でもないので、哲学者とはそういうものなのであろう。否定はしない。私にはできかねる、というだけで。

 

では、人生論ノートがまったくの駄作であるかといえばそうではない。考えさせられる箇所があるだの、共感しただのというのは、読者の精神の中で発展、処理されるものなので、著作のすばらしさを実体として説いているとはいえない。そういう話ではなく、例えば「虚栄(フィクション)」についてなどは、人生を指し示す明確な指標となると思う。虚栄心というものは、自分を大きく見せようという心情で、一般によろしくないとされる。しかし、これを持っていなければ、人間は前進できない。しかし、なにもかも虚栄で、嘘八百では見抜かれる。そこで、小出しにしていく。小出しにした虚栄に、自分が成長して追いつく。社会が成長して追いつく。そうやって発展していくのであれば、別にいいではないかということである。社会学にドラマトゥルギーというものがある。社会的に求められたものの役割を演じるというものである。家族の中では父親、会社では切れ者の課長、部下と酒を飲めば偉そうな人生訓を垂れて勘定を受け持つアホンダラ。それに近いかもしれない。いずれもあなた自身ではない。あなたがそれを演じているにすぎない。しかし、演じているうちに板につき、演じなくてもよくなる日がくる。それで発展、前進するなら、虚栄は人間を人間たらしめる理由かもしれない。

 

このような具合に、食えるところと食えないところはある。これらがすべて肯定できたとしたら、それはあなたのなかになにもないか、やはり熱病患者ではないかと思う。

 

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。