他人を見下す若者たち
最近の子どもたちがおかしい!という話を、特定の学校の先生たちとして、それを研究だと言い張る。それが教育学であり、教育心理学なのだそうだ。教育というものを精査し、体系化し、命脈を保ってきた「先生」に学んだわけではない連中が「教授」などと呼ばれ、先生の卵を教える。こちらのほうが子どもの品質劣化よりずっと恐ろしい。
そもそも、学校教員というのは世間から見ればステータスである。しかし、大学卒者、学士様からすれば、負け犬コースなのだ。無職より少しうえ、よくわからない営業マンや銀行員と同じで、一山いくらで買われる連中の行き先といわれていた。一応、それが現実だと思ってもらいたい。もちろん、教職を目指す方々には大変に感謝している。しかし、私は御免被る。だからこそ、一層感謝している。
教員の品性劣化について論じることは憚られる。圧力団体だからだろうか。もっとも、教員の品質も劣化したとは思わない。戦後の教員の酷さを見れば、今の教員はすばらしい。同列に比べあうのもおこがましい。別の生き物といって差し支えない。ただし、教員の教員あたりは怪しい。こういった戦後教員に教わった連中が教員の管理職に収まって、いじめ問題を隠すといった世間の感覚と著しくずれた治世を行うことは皆さんもご存知のとおりである。
本書の大きな欠点は、著者のイメージでしかないという点に尽きるやもしれない。愛知県の、名古屋の学生や教員の話を聞いて、想像して書いているわけだが、子どもの品質劣化のデータを見せたところで「名古屋の子どもがバカになっただけでは」だとか、「名古屋人特有の性格の悪さに起因するのでは」といった仮説(ここでは批判や否定と受け止めないでいただきたい)をぶつけられたとき、どのように反論するのだろうか。最近の若者、子どもと大上段に振りかぶった以上、この仮説、反論には応える義務があろう。
このようにいわれた日には、愛知生まれの人は「名古屋人をバカにするな!」と思うだろうけれども、それは若者だって同じこと。特に論拠となりえない、脇の甘い妄想で「若者をバカにする」となれば、怒りのひとつもこみ上げてくる。もっとも著者はこういった怒りは今の若者特有のもので、すぐにキレるのだというようだが。著者の定義、言葉を借りれば、著者こそ有能感に浸り、社会を分断する存在だと思うがどうか。
昔はよかったと、〜な気がする、を連呼する九官鳥に学んだ教員が、日本各地にばら撒かれないことを願うばかりである。家と学校を往復しただけの人間に、社会を見据え、語るだけの力量はない、ということか。辛辣すぎたか。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。



この記事へのコメントはありません。