職業としての小説家

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私の矜持として、「売れるのがいい本であり、売れない本は悪い本だ」という部分は変わりません。ですから、村上春樹の本はすべて「いい本」です。編集者であり、経営に携わる身からすれば、そこは一切揺るぐことはありません。ただし、売れる本という基準は様々です。どんなにすばらしい作品が掲載されていても、商業出版としては売れなければゴミでありますが、医学書や学術書のように、1000冊出ればいいという前提でつくられているような本は、そもそも売れるの基準値が低い。消費者の数が少ないので、難易度は変わりませんが、1000冊刷って1000冊売れ、採算がしっかりとれていれば「いい本」です。

 

村上春樹評

いま、村上春樹の著作を見るに、少なくともこれは医学書のようなものではなく、大衆書。しかも「わかりやすい文学風のもの」だと感じます。横文字でいえば、アカデミック風。完全な大衆文学やライトノベルのようなものでもなければ、ガチガチの純文学、苔むした時代小説でもない。「読んでいると頭がいいアピールができる作品」なのです。だから、売れる。頭がいいアピールをしたいなら、アリストテレスの弁術論やカントの純粋理性批判、量子力学の教科書でも読んでいればいいのですが、これらを読むのは大変つらい。だから、ファッションで村上春樹を読むのです。村上春樹の作品は、高校卒業程度の学力があれば読めないことはない。背伸びした大人たちの虚栄心に訴えかけて売れる。一番大きなパイを相手にしている見事さがあるのです。

 

ちょっと頭がよければ「うわっ」と思って読まないし、こんなもん俺にも書ける!と思って退出する。ここがミソなのです。大人は子どもに対して本気でやりあったりしません。知性の大人は、知性の子どもが妙なことをいっても咎めやしないのです。ですから、知性の子どもがのさばる余地がある。子どものやることだからと放って置かれた連中の勘違いが盛り上がっているのが現状といえるんですね。もっとも、こういった批判を「やれやれ」と受け流すことも、著者や彼らの自尊心を高める要素になっているわけで、知性の限界であって、どうにもならないものなのです。

 

 

職業としての小説家の虚栄

村上氏自身は、努力していない、大したことはないといい続けますが、こういったことをいう作家のすべてが嘘つきだということは、スティーブン・キングを筆頭に多くの作家も述べるところですし、編集者も一様に納得するところです。小説家が書く小説の書き方本というのは、得てして自身が天才であることを示す内容となります。直接か遠巻きかは別として、自分は天才だと凡百の作家がいうわけです。ならば、それが真実だろうと思うのは早計というもの。文学の世界には神秘性があり、神が光臨され、作家の筆を執らせるのだと信じてやまない人がおりまして、主に読者なのですけれども、作家が神秘的で天才的であることが重要で、もはや宗教と呼ぶべき状態になることをあちらこちらで目にします。小説でも漫画でも同じですが、作家が俗っぽいことをしていると、急に冷めるファンというのがいるわけです。小説家はその才能が枯れはじめると小説の書き方といった本を出しはじめますが、ぜひともそういった本のレビュー欄をご覧いただければと思います。赤裸々に俗なことが書かれていればいるほど、レビューコメントには意味不明な熱狂と、現人神から俗人へとなられたことへの失望感が交錯しているはずです。

 

「小説は神秘」「小説家は預言者」という世界観を作り上げれば大変に強く、頼まなくとも批判的な人間を叩き潰してくれます。本書のように、今まで書いてきた作品の穴を塞いでまわるようななさけない姿ですら、信者にかかれば神の御言葉となり、指摘するものを消さんとするわけです。

 

はっきり申し上げて、本書は小説家のなんたるか、小説の書き方というものは一切出てまいりません。首尾一貫して自身のブランド的価値を上げる努力と、「中身がない」と批判してくる連中に対しての反撃です。それも、面と向かってぶつかりあうのではなく、気に入らない奴の悪評を流したり、自転車のサドルを盗むようなものばかりで、やり口の情けなさといったらありません。

 

ここまで書くと、そんなに酷いのに多くの出版社が氏の小説を出そうとしているじゃないか、だから氏はすごい作家なのだ。嫉妬心に駆られたお前に何がわかる。といった拳が飛んでくるわけですけれども、皆さんはもうお忘れのようですのでもう一度。商業出版にとって売れる本がいい本なのです。作品がどうなどという話には、与しないのが原則です。

 

最後に一言だけ。世界一出ている本は聖書です。

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