横綱の品格と日本人
相撲は古事記や日本書記など、700年代初頭の書物に記される力比べに端を発し、およそ1500年の歴史を持つとされている神事であり、格闘技であり、興行(プロスポーツ)です。だから大切なんだと安易にはいいません。しかし、そこには日本人の源流、日本の精神が息づいているのです。
日本やその国籍を持つ者を手放しに礼賛したいわけではありません。一方で、日本の持つ精神性の尊さ、その精神を時代や世論といった俗なものに流されていいのか、という思いは拭えません。時代がつくる世論は風潮という言葉のように風向き潮の向きのごとく変わります。そんな一時的なものによって押し切られ、捨てていいほど軽いものなのか。横綱という存在を通して、一緒に学んでいただければと思います。
横綱の歴史と日本人
横綱は神に匹敵する力士。私の知る限り平安の世以来、大関が最も強いとされていた相撲の世界に、他を圧倒する強さと品格を兼ね備えた存在として横綱という地位が生まれ、認知されていきました。有り体にいえば大関までが人、横綱からは現人神といったところでしょうか。もちろん、横綱が生まれた経緯をたどれば、もっと人間臭く幻滅する部分もあるのですが、ともかく、200年ほど前に横綱は神に同じ存在として確立され、全国の大社、仏閣にて奉納土俵入りをするなど、その地の悪鬼、疫病を鎮めるほどの力を持つ存在として人々に認められ、崇められてきたわけです。
横綱には「日下開山」というふたつ名がつくことをご存知でしょうか。これは天下無双をあらわす語で、江戸時代に徳川家の将軍を「天下(様)」と呼ぶようになったことで、力士 が「天下一」「天下無双」を名乗ることが禁止(自粛)となり、下手に口にすれば打ち首になりかねないため、ふたつ名を変更したと聞いています。水戸の御老公を「天下の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ」と紹介しますよね。このように天下は徳川家をあらわすものとなったわけです。また、日光東照宮のように、徳川家康を神様として祀るようになりまし たので、天下一=神という考えが定着していきました。結果、日の下に並ぶ者なしという意味さえ伝われば神と同義になったと考えられます。なお、この日下開山は最強の横綱のみを指す言葉 ですので、二番手、三番手の横綱(現時点でいうところの日馬富士関や鶴竜関)には使いません。本当の神様は一柱だけということなのでしょう。
品格とはなにか
繰り返しになりますが横綱には強さと品格を求められます。そのために、横綱審議委員会などというしち面倒臭い組織があり、横綱推挙に相応しいだの、横綱になった後も何日目の取組はダメだっただの小姑のようにいうのです。この強さと品格というのが実に日本人らしい。品格は曖昧模糊としたものですので枝葉末節を無視して、わかりやすく最近の言葉にすればスポーツマンシップとなるでしょう。「横綱は正々堂々、真っ向勝負で相手の攻めを受けたうえで圧倒し、勝たなければならない」。これが品格の根本をなすものです。横綱は立ち合いに変化をしてはいけないという人が多いのは、神にも等しい存在が恐れをなし、策を弄して勝つなど言語道断だ!と思うからなのです。
一方で、横綱が変化して何が悪い!と怒る人もいるようです。彼らの言い分は、勝つための作戦を否定するなんて競技として出来損ないなのだ。勝利のために最大限の努力をするなというのはおかしい!というものです。また、「そんなに嫌なら横綱は変化するなとルールに定めればいいじゃないか」という意見もあります。
相撲取りは頭を鉄砲柱にぶつけすぎ、ブクブク太るしか能のないバカだから、こんな簡単なルールも決められないのだろう。といった風に、したり顔で指摘する者も多いのですが、残念ながらそれらはまったくあたりません。冒頭に申し上げました通り、相撲、こと横綱という地位については、日本人の精神性を最大限重んじているわけです。つまりは、「そんなことはいわなくても理解しろ」という、不文律、阿吽の呼吸、ツーといえばカーというものです。そもそも横綱は神様なのですから「真っ向勝負しろ」なんてルールを定めなくとも、おわかりいただけますよね?ということでもあります。日本人の奇妙な文化と真っ向勝負や受けの美学が相まったものこそが、横綱の品格の正体といえそうです。
今回、変化して勝つことの何が悪いんだといっている人の中には、横綱が横綱審議委員会の推挙がなければ横綱になれないことや、そもそもどうすれば横綱になれるのか(2場所続けて優勝またはそれに準ずる成績で、よい相撲を取る大関)すら知らない方がおられるようです。当然、横綱が2場所連続で負け越せば強制的に引退させられることも知らないでしょう。この規定を教えると、きっと「そんな厳しいルールがあるならなおのこと変化を認めろ」なんて騒ぎ出しかねないので申しませんけれども、「厳しいから甘くしろ」ではなく、こんな厳しい内規があってもなお勝ち続けられるほどの実力者しか横綱にはしないし、できないと考えて欲しいのです。ちょっと調子が悪くて……なんて言い訳は通用しない。覚悟を持って綱を張れる人物でなければ横綱にはなれないのです。そして、そこまで高潔で圧倒的で、心震える存在であればこそ、神として奉るに相応しいといえるのです。
勝とうと思えば、ルールの範囲内で色んなことができるでしょう。いわゆるスポーツマンシップの対極、ゲームマンシップと呼ばれるものですが、サッカーならエースの足をへし折ってやればいい。野球なら死球を食らわせてやればいい。「故意ではないです」という顔をしておけば、運がよければお咎めなし。それも勝つための作戦だというのであれば、それで構いません。ただ、相撲の世界では絶対に許してはいけない。
相撲はルールだけみていれば、相手の顔面に肘鉄、膝蹴りが可能です。肘、膝の使用が多くの格闘技で禁止されているのは、当たると死ぬからだということは周知のことと思います。相手の腕に飛びついて、肘を関節技のように極めながら振り回せば、横綱に相撲で及ばなくとも腕くらい折ることはできます。このように致命傷を与えれば、2場所負け越せば引退せねばならない横綱は、すぐにでも角界から「消せる」わけです。相撲は15日間とるわけですから、徒党を組んで壊しにいけばいい。もっといえば、場所前の稽古の際に出かけて行って怪我をさせてやればよい(実際にやっていた輩もおりますが)。しかし、それだけはしてはならないし、しないのです。なぜなら、2場所の不調で引退しなければならないような立場の横綱が、品格を重んじ、勝つためのゲームマンシップではなく、スポーツマンシップに身を奉じるからです。その圧倒的不利を抱えてもなお、実直に相撲をとる姿をみていれば、邪魔な存在は汚い手を使って消してしまおうという考えは持てなくなるはずです。
かつては横綱の顔を張る(張り手を食らわせる)ことは禁止でした。今でも遠慮する空気はありますが、これは、横綱は真っ向勝負で受けの相撲からはじめてくれるから、張っていくのは自重しようという「暗黙の了解」があったためです。神様の顔を殴るのは不敬という意味合いもありましょうが、横綱は変化(左右に動かない)しないわけですから、立ち合いに顔を張るのは容易です。かちあげといって、腕や肘を相手の腹や顎下に叩き込むことだって簡単でしょう。しかし、それはしない。横綱が変化しないという「暗黙の了解」を守る以上、その真っ向精神、受けの美に最大限応える「暗黙の了解」、作法というものがあると考えられていたからです。近年は残念ながら横綱側が張り手やかちあげを使って下位の力士を退けますから、薄れつつありますが、日本人の持つ美徳は横綱がだけでなく、すべての力士に共有されていたのです。
横綱が品格、美徳を追求するからこそ、横綱のようになりたいと思う力士が現れ、観客もまた魅了される。それが相撲の在り方であり、横綱が生身の人間と違うという所以であり、日本人の心を動かす精神の源でもあるのです。
さいごに
勘違いされておられる方が大変に多いのですが、横綱に求められるのは勝つことではありません。「最高の相撲をとること」これだけです。品格も圧倒的な力量も、この目的を実現するための要素でしかありません。この記事を読んで、横綱への理解が少しでも深まれば幸いに思います。
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